第七部 教育
教育
教わる側と教える側という二つの立場があります。教わる側は教わる事が楽しいのではなく学ぶ事すなわち知る事が楽しいのであります。これを知性と云います、人間の本能的欲求のように思われます。
ここで大切なことは教える側は決してでしゃばってはならないということであります。教育の本質は学ぶ喜びを教えることにあると思います。その学ぶと云う行為も個人が自発的に何かを知ろうとする事が大切であって、決して教えてもらう事を学ぶという態度であってはなりません。教える側は決して教える事はないと思います。
教わる側で最も大切なことは必ずまず初めに否定することであります。どのような事でも必ず否定は出来ます。そして教わる事と否定した事の両方を同時に考えて行くことが間違いを起こさない第一の条件であると思います。この方法を弁証法とも云います。
間違いは起きるもので起こってもしょうがないという態度がありますがこれは良くありません。間違いは起こらない方がいいし、起こさない方がいいのであります。間違いは愛嬌という考え違いをしている人もあるが決して間違いは愛嬌ではありません。
教育では学ぶ側が主役であって、教える側は手助けの役であります。知る事や数学が必要かどうかという問題は直ちにどちらでもよろしいと答えます。必要な物など何一つないと考えるからです。ただ生きるためには食物だけあれば十分であるからであります。しかもその食物でさえ自然が作ったものを勝手に取って食べて生きる事も可能なのですから。私はただ知ることの楽しさや有益さは確実にあると思っています。従ってこのような疑問は愚問だと思い害は取り除こうとする時もあると答えるだけにとどめて置きます。
次に教育の事と云うよりも、もっと根本的には知識の集積の結果としての差別の問題に移ります。結論的に言えば知識や知性などに価値などありませんし、またあってはならないと思います。この世には価値あるものなど何一つないと思います。
知識人が優遇されることなど断じてあってはならないと思います。自分の好きなことをしておいて、豊かになったり優遇されたり等もっての他というべきでありましょう。
芸術家、文学者、知識人、指導者、運動家その他好きな事をやっているあらゆる人はあまり優遇されるべきではないと思います。清く、正しくあるべきであり、その苦しさに耐えられないなら、即刻やめるべきであると思います。