精神の連続性について
人間の精神はぽつんとそこにあるのではなくて、幼時からの連続した形で成り立つものであり、環境にも大いに左右されるものであります。出会った人間との関係において著しい変化を見せるものであります。
相手が弱く見せかけると頭に乗るし、相手が強く見せかけると下手に出るし、卑屈になります。そして集団の場合または対の場合においてもそれぞれの関係において一つの形式あるいは、おさまり行く場所を見つけてしまうものであります。そしてそれはほとんど永久に変わらないと云ってもいいと思います。
このようにして形成された精神の状態には千変万化色々あって、どれが正常であってどれが異常である等と言えるものではありません。正常とか異常等という決して線の引けるものでもなく、すべては人間の一つの精神の在り方として表れているにすぎないのであります。
一人の人間をある一つ一つの面からみていくと、そこには全て欠けているものからそれに全精神を集中しているものまでの間に連続して存在することになろう。
全体的に見るならば精神薄弱から精神過多まで同じ存在性を持って、簡単に言うなら同じ価値を持って現れているように思います。
精神の形というものも最初からある決まったものがあるわけではありません。そこにはバランスとしての精神、他者との関係としての精神があるだけなのであります。夫婦もまた始めからある精神があるのではなく、二人の間に少しずつ精神の形が出来上がっていく、作られていくのであります。
権力というものもおかしなもので、権力という強さで持ってある形を持ってしまうし、大衆は大衆としてある精神の形を持ってしまうのであります。これは実に不思議なことであって事柄の良し悪し等とは全く関係もなければ能力等にも全く関係がないのであります。
従って馬鹿だろうと悪いやつだろうと権力者になれるのであります。成れるというより、人間が何かの拍子に権力を手に入れるとそれが永久に権力を持ったまま続いていくという全く悲しい構造を持っているということであります。