なぜ子供を産まなければならないか

 

 このような問題を提起すること事態が無意味ともいえます。何故ならこの問題に答えることは不可能に思えるからであります。私は子供を作らなければならないと云う理由を何一つ見つける事が出来ないのであります。例え、人類を滅亡させないためとか、人間という動物は子孫を残すように作られているものだと言って見たところで、このような答えが何の解決も与えてくれないのは明白であります

 この問題の逆について考えて見ると、『何故子供を産んでは成らないか』となるけれども、この答えにも、私は何一つ明解な理由を見つける事が出来ないのであります。例え、人間の醜い社会に子供を送り出すのは可哀そうだとか、この天災地変の多い自然を考えると、あまりの悲惨さにどうしても子孫を残す事を止めるべきであると云ったところで、これらの苦痛は実際には我々には感じられないもので、あくまでも子供たち自身の苦痛であります。しかもその苦痛といっている事象の中でも本人は現在生き続けているし、生き続けてきたのであります

 自己を離れた子供というものと親との間にはどのような連続性もないのであります。子をつくり続け現代まで続いていることの中にはどのような意義付けをすることもできません。それは自然そのものであり、そこにはただ生の空間があるだけの事だと思います。

 しかし人間は生殖の過程を明確に知っています。しかも人間は数限りない禁制の歴史を持って今日に来ています。生殖においても例外ではなく、生殖を禁止することが出来るのであります。ここでいう禁止とは、外的強制(権力)によるものではなく、内的(精神)強制における禁止であります

 今のところ、子供を作るべきか、作らざるべきかについては、議論の余地はなく、個人が個人の責任において「生殖」(自然的なもの)を否定するか。自然そのままに生き生殖を自然のままにまかせるかしかありません。

 「生殖」を否定するものは、個人の子孫の滅亡があるだけで、それ以外に何もありません。逆に「生殖」を肯定するものは、自然にしたがって生き、子孫が続く可能性があると云うだけで、それ以外に何もないはずであります

 この問題に関しては決して善悪などあろうはずもなく、あくまでも個人の決定(行動)の問題であり、他人や自分の子供、人類の子供とは関係付けられない事であります。

 人類の子孫の継続の問題は個人がどちらに決定するか、だけの問題で、それ以外の何の意味もありません。この事に権力などが立ち入ってはならない問題であります。

 人間、今生きている者の問題も同じ事でしょう。そこには常に共通の課題が存在していますが解答はないと思います。(生と死)  

 個人とは人類と置き換えることの出来るもので、問題は個人が子孫を続けるか止めるかだけにあります。